膵臓ではない。しかもそのタイトルもたまに脾臓と間違う。このお話読んだし映画もみたけどどういうニュアンスでこの表現だったのかは忘れました。あと脾臓ってなんだろう?
さて「魂を喰らう」ってお話とかで聞いたりします。なんか悪魔とかわりと食べてる。
食べるってことは何かしら栄養素ってことだよね。
栄養ってことは身体を構成する物になったり、エネルギーになるとかそういう事に使われるよね。
食事ってことは「美味しい」「不味い」がありそう。
何を美味しいと感じるかって、それが好きだったり場合によっては身体が欲しているものを美味しいと感じそう。
何を不味いと感じるかって、嫌いだったり身体に毒であるモノについてそう感じそう。
リアルで日常的に口にしている「たべもの」って実際に身体を成長させる為の物質として使われ、自分を構成するものとなり、あるいはエネルギー源として使われてそのおかげで体が動かせたりするよね。
じゃぁ魂を食べると何になるんだろう?
それは自分の考え方だとか意識だとか認識だとか、そういうものを構成し、成長させ、思考を促進する。精神にとっての栄養素なのかなぁって思った。
人の魂を食べる。
その人の精神を食べる。
その精神から生まれる思考、その精神を構成するに至った背景、その精神がみているもの。そういったものを食べる。
美味しい魂は自分にとって好ましいもの、近いものかもしれない。
自分に取り込んで自分を構成する要素として加え、自分の視野だとか思考だとかの幅を広げてくれるのだと思う。
不味い魂は自分にとって好ましくないもの。
例えそうだとしても、その味を知ることはやっぱり自分の視野や思考を広げてくれると思う。食べなければ知り得なかったそれを知ることは、何かの役には立つ。
例えば自分がそうならないようにするにはどうするか、世の中にはいろんな味の魂があるのだと、そういったことを知ることができる。
そういう意味ではどんな魂もありがたく頂戴したい。
◆ ◇ ◆
そんな風に思うので、私は人を見る時、話す時、この人はどうしてその言葉を使っているのだろう?どうしてその行動をとるのだろう?と興味がつきない。
自分にとって好ましいことも、そうでないことも、どういう思考からそこに至ったのか知りたいと思う。
それを知ることは何かしらになって、自分の引き出しのストックが増えるから。
普段コレクター的なゲームは苦手なのにおかしいな笑
その人の魂は、その人が死んでしまうと得ることができない。二度と。永遠に。
過去に得られた魂の断片からどれだけ想像膨らませても、それが本当にその人の魂が発する何かであるかどうか、永遠に確認できない。
ひとはわりとあっさり死んでしまうことを知ってしまったので、その人の魂が食べられなくなるのが怖い。二度と得られなくなるのが怖い。
だからわりとカジュアルに人に質問したり聞いたりして、相手の事を知りたいと思ってしまう。いますぐ。
その人がもしいなくなってしまっても、その人の魂を喰らって自分の何か構成要素の一部になっていると感じられれば、その人の魂もまた自分の中にあると思える。
そういう安心感を得たいというのもあるかもしれない。
だから私は君の魂がたべたい。